差別と平等

小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ (http://www.asahi.com/edu/news/TKY200902080102.html)

学級委員長が居なかったというのは凄いなぁ。

 小学校でずっと学級委員長を置いてこなかった鳥取県。「リーダーを選ぶのではなく平等を重視すべきだ」との考えが教員にあり、徒競走でも順位を決めないほどだったが、この春、鳥取市の1校で約20年ぶりに学級委員長が生まれることになった。

いろいろツッコミどころが多すぎなんだが、とりあえず「リーダーを選ぶのではなく平等を重視すべきだ」ってのはおかしい*1。つまり、「平等、平等」と言っている人の頭の中では「学級委員が上で他の生徒が下」という事だと認めてしまってるってこと。
本当に平等とか公平を教えるのであれば「学級委員長というのは、その人の役割であって、身分の上下ではない」という事を教えなければいけない筈。(現実に、学級委員長なんて雑用か生徒と教師の間の調停役に近い、ただの面倒な立場だ)
こうやって、普通の人が全く差別を感じない部分にめざとく差別を見つけてしまう(または作ってしまう)人ってのは、逆にその頭の中は(根拠の無い)差別でいっぱいなんじゃないかと思うんだが。
と、ここまで書いてて思ったんだけど、世の中の差別を糾弾する人と「陰謀史観」の人達って、言動のロジックが似ているような気がしてきた…。


ま、いずれにしても学級委員長が復活して、一番喜ぶのって生徒との緩衝剤を必要としている「マトモな教師」なんじゃないかしらん?

*1:徒競走で順位を決めない件は言わずもがな。というか、馬鹿すぎてコメントしたくない。