崇拝と鎮魂

唐沢俊一ホームページ::日記::2006年::08月::15日(火曜日) (http://www.tobunken.com/diary/diary20060815174638.html)

А級戦犯の分祀というのもアホらしい。もともと神道というのは国家に刃を向けた逆賊こそを神に祀って、これ以上の祟りをなさぬようなだめまつるのが一つの役割であった。関東の守り神は『帝都物語』でおなじみ、天下の大逆賊平将門だし、明治天皇に楯突いて西南の役を起こしたので靖国にはいれてもらえない西郷隆盛も、南洲神社という神社で神様にされている。菅原道真崇徳上皇も祟り神として恐れられたあと、神に祭られている。生前に悪人であったかどうかなどは祭祀に何の問題もないのである。むしろその死が不本意なものであり、祟りをなすに価して当然と思われる人物こそ、率先して祀って、その霊を鎮めねばなるまい。神社にお参りに行くというのはそこに祭られている者を賛美しに行くことばかりを意味するのではない。
「どうかこれ以上暴れて、国に惨害を及ぼさぬよう」
とお願いに行くことも大きな理由なのである。

コレを読んで気付いたのは、中韓の人は神社に祀られた人達が「崇拝」されていると思ってるんじゃないかと言う事。
唐沢氏も書いている通り、日本の神社に祀られている人というのは決して「崇拝」されている訳ではなくて「霊を慰める」事や「鎮魂」の為に祀られているに過ぎない。そこの所が諸外国には理解されていない様な気がする*1
そもそも、日本においては信仰と鎮魂の結びつきは非常に深い。本来「救済」の宗教であった筈の仏教を「鎮魂」の道具として変容させてしまった前科が有るくらいなのだから*2
気持ちの問題とか言う前に日本人の宗教観をちゃんと説明する方が良いと思う。思うのだが、日本人にとって空気のように無意識に馴染んでいる宗教観をちゃんと説明するのは難しいのかも知れない。

*1:鎮魂の結果として何らかの御利益があったという事によって崇拝されるようになった例は多いが、あくまでも神社で祀られる事の第一の理由は鎮魂である。

*2:本来仏教では死んだ人は輪廻転生して他の生命に生まれ変わっている筈なので、死んだ霊を慰めてもあまり意味がない。というか霊が存在するという思想が仏教的ではない。